その日から、町の人たちの動きが気になってしかたがなかった。パン屋のおばさんはいつも通り白い猫に見えるのに、袋を渡すときだけ、こちらを確かめるみたいに目を細めた。八木くんは子犬のまま笑っていたが、ぼくが転校生のことを口にすると、首を傾げるふりをして、それ以上は聞かなかった。みんな何でもない顔をしているのに、言葉の端々だけが妙に揃っている。まるで同じ台本を、少しずつずらして読んでいるみたいだった。 放課後、ぼくはわざと遠回りをして町を歩いた。角を曲がるたび、景色が少しだけずれる。見覚えのあるはずの家が、昨日よりも奥まって見えたり、広場のベンチが一本増えていたりする。そんな小さな変化を見つけるたび、胸の奥が冷たくなった。ぼくの記憶が正しいのか、それとも町がぼくの記憶に合わせて姿を変えているのか、もうわからない。 公園のそばで、転校生が待っていた。彼は石段に腰を下ろし、地面に落ちた木の影を見つめていた。「ぼく、気づいたかもしれない」と言う声は静かだった。「この町の人たち、ぼくたちが何を見ているか知ってる。知っていて、知らないふりをしてる」 その言葉に、ぼくは思わず反論しかけた。けれど、すぐに言えなくなった。さっき通った交差点で、信号待ちの列が、ぼくたちを見る前に一斉に止まったのを思い出したからだ。誰も合図していないのに、同じ動きだった。まるで遠くから糸で引かれた人形みたいに。 「ねえ」と転校生が言った。「君の家の裏、古い倉庫があるよね」 ぼくはうなずいた。物置にしか見えない、鍵のかかった小屋だ。すると彼は、そこに行けば何かがわかる気がすると言った。ぼくは嫌な予感を覚えながらも、断れなかった。自分でも、もう後戻りしたくなかったのだ。 薄暗くなった頃、ぼくたちは家の裏へ回った。倉庫の扉は、思ったより簡単に開いた。中は古い紙と油のにおいがした。積まれた箱のあいだに、金属の棚があり、その奥に一冊だけ、赤茶けた表紙の記録帳が隠れていた。ページを開いた瞬間、ぼくは息をのんだ。 そこには、ぼくの名前があった。生まれた日、好きな食べ物、よく見る夢、転びやすい道。細かく、丁寧に、ぼくのことだけが記されていた。しかも日付は、ぼくがまだ字も読めないころから始まっている。 ページをめくるたび、手が震えた。次の欄には、周囲の人の反応の変化、視覚の安定度、動物像の固定傾向、と書かれていた。最後の方には、観察対象、継続中、とだけある。ぼくはその言葉が何を意味するのか、すぐには理解できなかった。ただ、頭の中で何かが音を立てて崩れた。 転校生は記録帳を覗き込み、ふっと息を漏らした。「やっぱり」 そのとき、倉庫の外で足音が止まった。振り向くと、扉のすき間に白い猫の目がひとつ、静かに光っていた。ぼくは凍りついた。見慣れたはずの目なのに、今日はそれがただの猫ではないと、はっきりわかった。誰かがそこで、ずっとぼくを見ていた。 転校生がそっと記録帳を閉じた。その手つきは、驚くほど落ち着いていた。ぼくはようやく、自分が見ていた世界が壊れたのではなく、最初からこういう形で組まれていたのだと知った。動物に見えていた町は、ぼくを安心させるための皮だったのかもしれない。そう思った瞬間、見慣れた白い猫の顔が、初めて人間の目に見えた。
見えていた町の秘密
小説ID: cmru5t6zm000001qome5rh1js
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