chapalette Logo

見えていた町の秘密

小説ID: cmru5t6zm000001qome5rh1js

8 / 10

その夜から、ぼくは誰かの優しさを素直に受け取れなくなった。パン屋のおばさんが焼きたての甘い匂いのする袋を差し出してくれても、その手つきが慰めなのか監視なのか、見分けがつかない。八木くんがいつもの調子で笑いかけてきても、その笑顔の裏で何を知っているのかと考えてしまう。町の人たちは変わらず親切だった。だからこそ、余計に怖かった。知っているからこそ、ぼくに近づいてくるのではないか。そう思うたび、胸の奥がひどく冷えた。 学校でも同じだった。先生はいつも通り黒板に向かい、友だちは机を寄せ合って騒いでいる。けれどぼくの目には、みんなが少しずつ距離を測っているように見えた。ぼくが何を見たのか、どこまで気づいたのか、それを確かめるために輪を作っているような、そんな息苦しさがあった。ぼくは何度も転校生のほうを見た。あの子だけが、同じ高さでこちらを見返してくる。 放課後、ぼくたちは図書館の裏にある小さな丘へ行った。町が一望できる場所だった。屋根の並びも、時計台も、広場の木も、知っている景色のはずなのに、今日はすべてが作り物みたいに整って見えた。転校生は石の縁に腰を下ろし、ぼくの手にある記録帳を見た。 「読めば読むほど、逃げ場がなくなるね」 ぼくはうなずいた。逃げたい気持ちはあるのに、どこへ行けばいいのかわからない。 「でも」と転校生は続けた。「逃げ場がないって気づけたなら、次は確かめられる。見たものを、見たままに言っていいんだよ」 ぼくはその言葉に顔を上げた。信じろ、と言われたわけじゃない。信じたいものを無理に選べとも言われなかった。ただ、自分の目で見た違和感を、なかったことにしなくていいのだと教えられた気がした。 そのとき、丘の下の道で白い猫の影が立ち止まった。パン屋のおばさんだ。ぼくたちを見上げる顔は穏やかで、でもどこか決意のようなものを含んでいた。ぼくは息をのんだ。彼女は何も言わず、ただ小さく手を振った。その仕草は、心配しているようにも、見届けるようにも見えた。 転校生が立ち上がる。「行こう。次は、もっとはっきり知れる場所がある」 ぼくは記録帳を胸に抱え、うなずいた。怖さは消えなかったが、ひとりで抱える怖さではなくなっていた。転校生が隣にいる。その事実だけで、足が前へ出る。 ところが丘を下りた先で、ぼくたちを待っていたのは、見慣れた町役場の扉ではなかった。そこにあったはずの建物が、今は白い壁の長い施設に変わっていた。窓は少なく、看板にはただ一行、観察区画管理室とあった。ぼくは立ち尽くした。町が少しずつずれていたのではない。ずれていたのは、ぼくが見ていた現実のほうだったのかもしれない。