倉庫の外に立っていたのは、パン屋のおばさんだった。白い猫に見えていた輪郭はそのままなのに、目だけが妙にまっすぐで、ぼくを知っている人の目だった。おばさんは何も言わず、ただ扉を開けたまま立っていた。逃げろ、とも、来い、とも聞こえない沈黙だった。 転校生が先に立ち上がった。「ここで隠すつもりはないんだね」そう言うと、おばさんは小さくうなずいた。ぼくは記録帳を握りしめたまま、足が動かなかった。外の風は冷たく、倉庫の中の油のにおいと混ざって、ひどく現実じみていた。 おばさんに案内されたのは、倉庫の床下に続く細い階段だった。降りた先には、思っていたより広い部屋があった。壁いっぱいの棚に、古い写真や図面、観察表が並んでいる。中央の机には、町の見取り図が広げられ、赤い線で区画がいくつも引かれていた。線の内側には学校、広場、病院、図書館。ぼくが毎日歩いていた場所が、きれいに囲われている。 転校生が図面の端を指した。「ここ、人間の言葉を話せる動物を育てる実験区って書いてある」ぼくは言葉を失った。おばさんは静かに、棚から一枚の古い記録を抜き取った。そこには、町の住民は人ではなく、人の形を借りた動物であること、そして成長の過程で観察対象に見え方の差が出ることが書かれていた。さらに、少数の子どもは境界の影響を強く受け、世界を分けて見るための受け皿として選ばれる、とあった。 選ばれる。ぼくはその言葉を飲み込めなかった。なら、ぼくは何だったのか。ずっと見えていた動物の姿は、ぼくの目が作った幻だったのか。それとも、ぼくが最初から、この町の正体を受け止めるために置かれていたのか。 「君は観察されるだけじゃない」おばさんが初めて口を開いた。「君は、境目を見るために育てられた。見え方が変われば、町も変わるから」 転校生がぼくの肩に手を置いた。その温度だけが、やけに人間らしかった。ぼくは記録帳を開き直し、自分の名前の下に並ぶ細かな文字を見つめた。もう怖くない、とは思えなかった。けれど、怖さの形が変わっていた。知らなかった世界が急に現れたのではない。ずっとそこにあったものを、ようやく見たのだ。 階段の上で、誰かが静かに戸を閉める音がした。おばさんは耳を澄ませ、転校生は息を止めた。ぼくもまた、見えているものの奥にあるものへ視線を向けた。町はまだ、ぼくを囲っている。だが今度は、その囲いの継ぎ目が見える。ぼくは記録帳を胸に抱え、初めて自分の目で現実を確かめようとしていた。
見えていた町の秘密
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