三冊目の帳面を開くと、最初の頁には祖母の字で日付だけが並んでいた。結人が生まれるよりずっと前の、町へ出た翌年からの記録だった。 昼は縫製工場。夜は帳面を書く。 給料日。鉛筆十二本、ノート八冊、地図帳一冊。 分校の子らに送る。重くなるから、弁当箱には返事だけ入れてもらうこと。 結人は頁を繰る手を止めた。祖母は町で働き、自分の暮らしを立てながら、分校へ教材を送り続けていた。次の頁には、子供たちの癖のある字が貼られている。 新しい絵の具で山を描いた。 町には電車が二両もあるのか。 澄江さん、無理してないか。 祖母の返事は短い。無理はしていない、町の空も狭くはない、勉強しておけば山の外へ行っても困らない。けれど最後には必ず、楢ノ沢の雪はどうか、誰それの咳は治ったか、と村のことが書かれていた。 「追い出された人の文章じゃないな」 結人が言うと、紬は帳面をのぞき込み、静かにうなずいた。 「それに、これ。百年前の転校生って、一人じゃないんだね」 帳面の後ろには、何人もの名前があった。町へ出た子、村に残った子、箱を運んだ親たち。学校と学校の間をつなぐ者を、いつからかそう呼んだらしい。転校していないのに転校生。楢ノ沢の命名は、やはり少し山道だった。 その時、土間の戸が勢いよく開いた。源三が立っていた。肩には薪、顔には不機嫌を二束三文で詰めたような皺がある。 「何を読んどる」 結人が帳面を隠すより早く、源三は中身を見た。太い指が、教材の記録の頁で止まる。 「もうやめろ」 「どうしてですか」 「昔のことを掘ったって、腹は減るだけだ」 「源三さんは知ってたんですよね。祖母が村のために何をしてたか」 源三は薪を床へ置いた。鈍い音がして、家の空気まで黙った。 「澄江は、自分で町へ行った。村に金を出させんためにな。だが、そんなことを今さら並べて、誰が楽になる」 「少なくとも、追い出されたって噂を信じるよりはましです」 言い返した声が、自分でも驚くほど強かった。源三の目が細くなる。 「おまえは知らんでいい」 「祖母の孫です。知らないまま帰る方が変だ」 源三はしばらく結人を睨んだあと、鼻を鳴らした。 「都会の子は、妙なところで動かん」 「村の人も、妙な理屈で薪を運ばせます」 紬が吹き出し、源三はさらに険しい顔になった。けれど帳面を取り上げることはしなかった。 結人は祖父の欠けた頁と、祖母が残した返事を見比べた。まだ分からないことがある。なぜ皆が口を閉ざすのか。祖父が何を切り取ったのか。けれど、祖母は村から切り離されたのではない。遠くへ出て、切れそうな糸を何度も結び直していたのだ。 結人は弁当箱の蓋を閉じた。金具の音は小さかったが、もう後戻りしない合図のように聞こえた。
百年後の転校生は独りじゃない
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