直人は担当者を呼び止め、人格履歴補助の提供元を見せてほしいと頼んだ。 担当者は一度だけためらったが、未成立の契約なら説明義務があると言って、奥の端末を開いた。表示されたのは氏名ではなく、提供者番号と作成年月だった。五年前よりさらに三年古い記録。提供者は死後の対人支援研究に参加し、自分の行動記録を匿名化して残していた。 内容は、誰かの人生をそのまま写したものではなかった。独居者の沈黙を急かさないこと。困っている相手には選択肢を二つまでにすること。相手の予定を聞いたら、負担の少ない順路を組み直すこと。声の調子が硬いときは、答えを求めず一度待つこと。 「記憶や人格そのものではありません」 担当者は画面を指した。 「対人支援のために残された判断の記録です。導入先の方の経験と結びつき、行動を補助します。提供者の家族や生活、固有の思い出は含みません」 直人は雨避けのメモを思った。あれは自分が契約前に残したものだ。だが、契約の翌日から真壁の便まで見渡すようになったこと、筆談用紙の場所を住人ごとに整えたこと、夕食の記憶に触れたとき、皿をすぐ片づけない方がいいと思ったこと。そのひとつひとつに、画面の短い項目が重なった。 提供者番号の詳細欄には、遺族の同意文があった。困っている人が、誰かを遠ざけずに済むなら使ってほしい。署名は伏せられていたが、末尾に登録された一文だけが残っている。 急がなくていい。待っている人は、急かされるより忘れられることを怖がる。 直人は息を止めた。平屋の住人が荷物を受け取るまで、廊下で少し待つようになったのも契約後だった。耳の遠い住人に、扉を三回叩いてから紙を差し出すのもそうだ。自分の手でしてきたことなのに、その最初の方向を与えたのは、会ったこともない故人だった。 「消去した場合は」 直人の声は掠れた。 「補助データによる影響は失われます。ただし、導入後にご本人が選び、繰り返した行動まで消えるとは限りません」 限りません、という曖昧な言葉が、今は救いにも脅しにも聞こえた。 家族の記憶を守るには、ここで署名を止めればいい。けれどそうすれば、直人が誰かの不在に気づけるようになった理由も、真壁が助かった段取りも、待ってくれる人のために立ち止まる癖も失うかもしれない。 時計の針は四時四十五分へ近づいていた。直人は端末の画面に映る自分を見た。そこにいる男が本来の自分なのか、誰かの記録に支えられた今の自分なのか、もう簡単には切り分けられなかった。
追憶端末、最初の挨拶
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