その日の夕方、紬は母の葉月に頼み込み、粟の粥と山菜の煮物を小さな籠に詰めてもらった。旅人は村外れの空き小屋に閉じ込められていた。見張りの男たちは、逃げる足も影もないのだから平気だろうと言いながら、戸口から遠巻きにしていた。 紬が戸を押すと、旅人は藁の上で膝を抱えていた。窓から差す夕日が床を赤く染めても、やはり彼の足元には何も生まれない。 「食べられそうですか」 問いかけると、男は驚いた顔をしてから、ゆっくりとうなずいた。粥を口に運ぶ手は震えていたが、二口、三口と食べるうちに頬にわずかな色が戻った。 「温かいものを食べたのは、久しぶりな気がします」 「名前も、まだですか」 「ええ。でも、それ以外は少し覚えています。峠を越えて、この村へ向かっていたこと。雨に降られたこと。谷口で、誰かが言い争う声を聞いたこと」 紬は息を止めた。 「火事の夜のことは?」 旅人は匙を置いた。目を閉じると、苦しげに眉間へ皺が寄る。 「そこだけ、白く抜け落ちています。火の匂いと、鈴の音がした気はするのに。次に覚えているのは、霧の中で目を覚ましたことです」 彼は隅に置かれた革袋を引き寄せた。村人に調べられたあとも、荷は乱暴に口を縛られたままだった。紬が結び目をほどくと、着替えと乾いたパンのほかに、布で包まれた小さな鈴が出てきた。 青黒い金属の鈴には、焦げた祠の柱と同じ、渦を巻く雨紋が刻まれていた。振っても音はしない。けれど鈴の表面は、今しがた霧から拾ったように濡れていた。 「これ、谷口の祠の鈴だ」 紬の声に、旅人は首を振った。 「持っていた覚えはありません」 鈴の下には、端のにじんだ地図があった。白雨へ続く山道が墨で引かれ、その先、焼けた祠のある谷口にだけ赤い印がついている。紙は雨ではなく、指先が冷えるほどの霧で湿っていた。 紬は地図を見つめた。旅人は祠を焼くために来たのではない。誰かに会うか、何かを確かめるため、あの夜の谷口へ導かれていたのかもしれない。 外で見張りの男が咳払いをした。紬は鈴を布に戻したが、布越しにも、かすかな震えが掌へ伝わった。谷の方角から、聞こえないはずの鈴の音が一度だけ鳴った気がした。
谷の影が呼ぶ真実とは
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