白い霧の腕は、広場を越えて紬の家の戸口へ触れた。戸がひとりでに開き、父の朔が現れた。仕事着の胸元にはまだ木屑がつき、足元の影だけが、谷へ引かれるように長く伸びている。 「父さん」 紬が駆け寄ろうとすると、朔は静かに手を上げた。葉月は顔を覆い、膝をついた。 「火事のあと、村長は俺のところへ来た」 朔の声は霧の中でもよく通った。 「葉月が見たことを言えば、おまえたちまで村にいられなくなると脅した。山仕事の口も、家も失うかもしれんと。俺は家族を守るつもりで、葉月に黙っていろと言った」 葉月が首を振る。 「私も、あなたが止めなければ言えたわけじゃない」 「そうだな。俺たちは互いを守ると言いながら、旅人をひとりで霧へ置いた」 朔が認めた途端、その影は石畳から剥がれた。黒い輪郭は谷へ飛ぶのではなく、広場に散った影たちの間を迷うように巡り始める。村長の影も、見回りの男たちの影も、持ち主の足元へ戻りかけては、霧に引かれて止まった。 澪は鈴杖を胸の前で握った。 「真実は道を開きました。でも、帰る者を先導する影がありません。失われた影は長く霧に触れすぎて、持ち主の声だけでは帰れないのです」 旅人のいない空き小屋の方から、音のない鈴の震えが伝わってきた。紬の手の鈴が応え、霧の奥にいくつもの黒い人影が浮かぶ。その先頭には、影のない旅人の形があった。 朔は谷口へ向いた。 「俺の影なら行ける。ずっと家族のことばかり見て、村の中の怖さを知っていた。迷った影たちのそばに立てる」 「だめ」 紬は父の袖をつかんだ。朔の手は温かかった。 「帰ってくる道まで、なくなるかもしれない」 「道は、みんなが嘘を隠さなければ残る」 朔は紬の手を包み、葉月にも目を向けた。 「今度は、ひとりで抱えないでくれ」 澪が地面に白い粉で儀式の輪を描いた。輪の中心へ朔が進むと、その影は足元からほどけ、霧へ向かう黒い道になった。朔は一度だけ振り返り、紬に笑った。 次の瞬間、谷の鈴が鳴り、影の道の向こうから、迷っていた無数の影がこちらへ歩き始めた。
谷の影が呼ぶ真実とは
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