澪は谷の縁へ進み、鈴杖と旅人の鈴を重ねるように掲げた。二つの鈴が鳴ると、霧の中にほどけていた朔の影が黒い道をまっすぐに伸ばした。道は谷底へ沈むのではなく、迷う影たちの足元を淡く照らしている。 「帰る場所を思い出して」 澪の声に応えるように、霧の奥の影のない旅人が顔を上げた。彼の足元へ、最初にひとつの影が走った。濡れた外套の裾を揺らし、旅人の形にぴたりと重なる。 旅人は息をのみ、両手で頭を押さえた。 「峠の宿で聞いたんです。白雨の祠には、雨を鎮める鈴があると。火を見て、鈴を拾って……消さなければと」 失われていた言葉が、堰を切った水のように戻ってくる。彼の足元に生まれた影は、もう霧へ引かれなかった。 それを合図に、広場へ散っていた影たちが次々と持ち主へ帰った。村長の足首に絡んでいた黒い縄もほどけ、見回りの男たちは泣きながら、自分が見たこと、自分が黙ったことを口にした。影が戻るたび、霧は白さを失い、谷の底へ静かに沈んでいく。 けれど、最後まで朔の影だけは帰らなかった。 黒い道は谷の奥へ続き、その先で、誰にも触れられない扉のように揺れている。紬は輪の外から駆け出し、父の前で立ち止まった。 「父さんの影も、呼べば帰るよね」 朔は首を横に振った。悲しそうではなく、迷いを決めた顔だった。 「皆の影が帰るまで、道を支える者がいる。俺の影は、まだ谷で迷うものを見届ける」 「じゃあ父さんは」 「体はここにいる。でも影を預けた者は、谷の声が静まるまで遠くへは行けん」 紬の目から涙が落ち、白い粉の輪を濡らした。朔はしゃがみ、娘の額に自分の額をそっと寄せる。 「春にまた会おう。雪が解けて、谷の道が見えるころに」 「絶対だよ」 「ああ。今度は、隠さずに帰る」 澪が最後の鈴を鳴らした。朔の影は一度だけ大きく揺れ、紬へ手を振るような形になってから、霧の奥へ残った。谷は深い息を吐き、秋祭りの夜空には、消えかけた星がひとつずつ戻り始めていた。
谷の影が呼ぶ真実とは
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