葉月は祠へ来た道を引き返さず、村長の家のある坂へ急いだ。紬は源蔵に鈴を預け、少し間を置いてあとを追った。 村長の家は広場を見下ろす場所にある。門の脇には祭り用の松明が何本も積まれ、乾いた木肌に朝の光が刺さっていた。紬が垣根の陰へ身を寄せると、戸が開き、葉月が出てきた。 母は村長ではなく、蒼真と向かい合っていた。蒼真は戸口の暗がりに半身を隠し、何かを差し出そうとしている。葉月は首を強く横に振った。 「もう、このことは口にしないで」 聞こえた声はかすかだった。 「祭りが済めば、谷も落ち着く。あの旅人だって、村を出ればいいの」 蒼真が低く何か返すと、葉月は唇を噛み、袖口を押さえて坂を下り始めた。紬は物陰から飛び出した。 「母さん、火事の夜に何を見たの」 葉月の足が止まった。顔を上げた母の目は、叱るときよりずっと弱かった。 「子供が首を突っ込むことじゃないよ」 「旅人は、名前も思い出せないんだよ。皆が火をつけたって言うから、影まで取られたんだ」 「紬」 葉月は娘の肩に手を置いた。指先が冷えていた。 「知らないほうがいいこともある。蒼真さんは村長の息子だし、あの子にもこれからがある。あの晩のことを掘り返せば、村じゅうが困るの」 その言葉で、紬の胸にあった疑いが形になった。母は見ていた。火を起こした者を、旅人ではない誰かを。 「困るから、旅人に押しつけるの」 葉月は答えなかった。ただ紬を避けるように歩き出した。急いだ拍子に、押さえていた袖口から小さな布片が落ちる。紬はそれを拾った。 端が黒く焦げた、紺色の厚い布だった。煤の下には銀糸で、羽を広げた鷺の紋が縫い取られている。村長の家の門にも、蒼真の羽織にもある家紋だった。 「これ、蒼真さんの」 葉月は振り返り、布片を見た途端に息をのんだ。取り返そうと伸ばした手を、紬は握りしめた鈴のように強く避けた。 谷から吹いた風が、坂の下の影を揺らした。葉月の影は細く長く伸び、村長の家の戸口にいる蒼真の足元へ、黒い指先のように触れていた。
谷の影が呼ぶ真実とは
小説ID: cmu8illhe000w01mz0aj67rke
4 / 10
