卒業式の準備が終わった市民文化会館には、拍手の代わりに冷えた空気だけが残っていた。講堂の壇上には校旗と花台が整えられ、明朝になれば白い光に包まれるはずの椅子が、今は暗がりの中で整然と並んでいる。 岸本は最後列の席に置き忘れられた名札を拾い、腕時計を見た。午後九時を過ぎている。真琴が舞台袖から顔を出し、小さく肩をすぼめた。 「先生、もう帰れますか」 「ええ。お母さんと校長先生も、すぐに」 卒業生代表の動線確認に付き添っていた玲子は、真琴の首元のマフラーを結び直した。榊は講堂の出入口を振り返り、管理室へ挨拶をしてから出るつもりらしかった。 四人が非常用扉の前に集まったとき、玲子が先に押し棒へ手をかけた。重い金属音がしただけで、扉は一寸も動かなかった。 「鍵が掛かっているんですか」 玲子が力を込める。岸本も隣から押したが、扉は壁の一部になったように沈黙していた。榊は眉をひそめ、扉脇の表示板を確かめた。赤いランプが、規則正しく点滅している。 「電子錠です。だが、非常用扉が内側から開かないとは」 岸本は携帯電話を取り出した。画面には圏外の文字が浮かんだ。玲子も、榊も同じだった。厚いコンクリートに囲まれた講堂では、連絡が遮られているらしい。 そのとき、天井の送風口から低い唸りが消えた。さっきまでかすかに流れていた温風が途絶え、冷気が床から這い上がってくる。外は夕方から雪混じりの雨だった。窓の向こうでは、街灯に照らされた白い粒が斜めに走っている。 「節電設定です」榊が言った。「夜間は暖房が止まると聞いていました」 真琴は何も言わず、壇上の卒業証書筒を見つめた。進学先の名が記された書類を、岸本が鞄にしまったことを、彼女は知っている。その書類には、まだ誰にも見せられない不備がある。 岸本は講堂の奥にあるもう一つの扉へ歩いた。だが、そこにも同じ赤いランプが灯っていた。外からの解除を待つしかない仕組みだと、表示板の小さな文字が告げている。 玲子の顔から血の気が引いた。「会館の人は、もう帰ったんですか」 答えようとした榊の携帯が、短く震えた。圏外のまま届いた一通の未送信通知には、差出人の名前だけが残っていた。 湊。 誰も、その名をすぐには口にしなかった。岸本だけが、冷えた講堂の中央で息を止めた。
卒業式に席は足りるか
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