夜遅く、宿の食堂にセナ先輩が入ってきた。外套の肩が雨でもないのに湿っている。私を見つけると、いつものように片手を上げた。 「待たせたね。何か食べた?」 その一言で泣きそうになった。卓上の冷めたスープを指さすと、先輩は向かいの椅子を引いた。 「まず温めてもらおう。話はそれからでも――」 言葉が止まった。 私が差し出した包み紙には、セナ、と書いてある。先輩は名前を見たまま、椅子に座らなかった。いつもなら迷わず私を助けてくれる手が、背もたれの上で固まっていた。 「ごめんなさい。お礼にしたかったんです」 「うん。分かってる」 先輩は笑おうとした。その足元で、水がにじんだ。 板の継ぎ目からではない。乾いた床の真ん中に、薄い水の膜が広がっていく。私の靴にも触れた。冷たさが靴底を抜け、足首をゆっくり包んだ。 食堂の出口で、鈴が鳴った。 扉についたものではなかった。そこにはもう、廊下がない。 暗い海へ延びる桟橋があった。傾いた杭。赤い屋根の船小屋。風に揺れる鈴だけが、ひどく鮮やかに見えた。 「うちの町の……」 先輩がつぶやいた。 「あの桟橋、私が小さい頃に流されたのに」 濡れた板の向こうから、声がした。 「セナ。遅かったね」 誰の声か、私には分からなかった。けれど先輩の顔から、警戒がほどけた。叱られる前の子供みたいに、唇が小さく動く。 「そこに、いるの?」 「先輩、だめです」 私は外套へ手を伸ばした。 「確かめるだけ」 一歩だった。 先輩の靴が桟橋に乗った瞬間、潮の影が足元から立ち上がった。外套の裾も、伸ばした手も、黒い水面の下へ沈むように消えた。 椅子だけが、私の前に残った。 追いかけようとした足を止め、背もたれを握った。ここは食堂だ。まだスープの匂いがする。私はここから呼ばなくちゃいけない。 「セナ先輩! 聞こえますか!」 返事の代わりに、波が砕けた。 「帰ってきてください。あの、失敗した日に作ってくれたスープ、私、まだ作り方を聞いてません!」 声を重ねても、波音ばかりが大きくなる。 卓上の匙が揺れた。桟橋の向こうで、誰かが私の呼びかけを待つように、ゆっくり息を吸った。
先輩へのお守りが指の温もりを奪う
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