第六番の名が呼ばれたとき、襖の向こうの笑い声がもう一度、細く鳴った。今度は空耳ではない。場にいる誰もが、いっせいにそちらを見る。けれど立ち上がったのは、予想していた誰かではなかった。 障子の影から現れたのは、背丈も顔つきもはっきりしない、ひどく薄い輪郭の男だった。輪郭が薄いのに、目だけが妙に澄んでいる。 「第六番、うつろ舟のユイ」 名乗りは静かだったが、そこに集まった空気は一段、深く沈んだ。 「珍しいと言われることが多い。理由は簡単で、わたしは水に映ったものから生まれたからです」 アカネが目を丸くした。「水に映ったもの、ってのは、影の親戚みたいなものかい」 「似ていますが、少し違います。影は形を追いますが、わたしは形の揺れを拾う。川面が揺れた拍子にこぼれた月、曇った瓶にのこる灯り、雨の日にだけ見える道。そういうものの端から、ひとつずつ集まってできました」 座敷のあちこちで、小さな息をのむ音がした。カズラが思わず前へ身を乗り出す。 「じゃあ、お前はどこか一つの土地の生まれじゃないのか」 「ええ。だから根がないように見える。けれど、根の代わりに水脈を辿るんです。流れていた場所、止まっていた場所、誰かが見落とした場所。そのつど、少しずつ形を借りてここまで来ました」 ミナトが細い指先を顎に当てた。「見え方を変える者の、さらに外側にいるのね」 「そうかもしれません。わたしは映す鏡ではなく、映る前の気配ですから」 シラベが初めて、はっきりと興味を示した顔をした。「それは、霧よりも曖昧ですね」 「曖昧だから、誰の邪魔もしない」ユイはそう言って、薄く笑った。「ですが邪魔をしない代わりに、見つけてもらいにくい。だから、こうして名乗る必要があるんです」 トオルが静かにうなずく。「名を持つことで、場に居場所が生まれる」 「ええ。わたしはようやく、今夜ここでひとつの輪になれました」 その言葉が終わると、不思議なことに、座敷の灯りが一斉にやわらいだ。アカネの火は揺らぎ、シラベの霧は薄まり、カズラの手元は静まり、ミナトの視線は柔らいだ。ユイの周囲だけではない。皆が、少しずつ彼を受け入れている。 だが私は、そのとき初めて気づいた。ユイの言う水脈とは、この座敷の外ではなく、今まさに私の足元へも続いていたのだ。畳の下を、見えない流れが静かに満たしている。私は背筋を正しながら、なぜか帰る道の記憶があやふやになっていくのを感じた。 ユイは私にだけ、わずかに視線を向けた。澄んだ目が、鏡でも霧でもないものを映す。 「案内役は、もう十分です」 その一言で、戸の向こうの笑い声がすべて同じ水音に変わった。
妖怪三十体自己紹介
小説ID: cmpl447rq000001p4f0s0cuc1
6 / 10
