「まず眼鏡を確保して」 通信機から紗良が言うより早く、船内映像の端を、源三の眼鏡がゆっくり横切った。無重力の空気に乗り、観測卓の上を漂っていく。 「待て、わしの目じゃ!」 紗良の細い身体をした源三が、手近な手すりを蹴った。勢いがつきすぎて、眼鏡とは反対側の壁へ進んでいく。 「足で蹴ると戻れなくなるよ!」 「先に言わんか!」 船員らしい若者が壁から壁へ器用に移動し、眼鏡をつかまえた。源三は受け取るなり鼻に載せ、深々と頭を下げる。 「宇宙では眼鏡にも迷子札が要るな」 そのころ紗良は、祖父の太い腕で丸屋根の手動ハンドルを回していた。古い歯車は低くうなり、屋根がわずかに開く。けれど源三の身体は力加減を知らず、一回転させたハンドルに引かれて、紗良まで一緒にぐるりと回った。 「わあっ」 床に尻もちをついた紗良の笑い声が、木造の天文台に響く。 「おじいちゃん、これ、重すぎる」 「油を差してから回すんじゃ。右の棚、青い缶じゃぞ」 「右の棚が三つあります」 「わしの右じゃ」 「今の私はおじいちゃんだから、その右も私の右でしょう」 言い返すと、通信の向こうで源三がしばらく黙り、それから声を立てて笑った。紗良もつられた。宇宙では眼鏡ひとつに苦労し、地上では屋根ひとつに振り回されている。互いの暮らしを知っているつもりで、何も知らなかったのだと思えた。 油を差し、今度は慎重に回す。丸屋根が夜気を招き入れ、望遠鏡の前に空が開いた。紗良は手帳をめくり、源三の癖のある字で昨夜の日付を探した。 「おじいちゃん、彗星を見たのは、私がオリオンで撮影する少し前?」 「夕食のあとじゃ。北東の空、こと座の下を青い尾が流れた。手帳にも印をつけた」 紗良は頁の隅にある、丸に短い尾を引いた印を指でなぞった。 「こっちでも同じ。撮影時刻を地上時刻に直すと、ほとんど重なる」 源三は眼鏡を押し上げ、船の観測窓へ向いた。 「同じ彗星が、わしらを入れ替えたということか」 「たぶん。でも、ただ見るだけじゃ足りない」 紗良は望遠鏡の照準を合わせた。青白い尾は、山の暗がりの上でかすかに揺れている。 「地上と宇宙で記録を比べよう。あの光が何をしているのか、きちんと捕まえるために」 「よし。今度は眼鏡も、そちらの屋根も逃がさんぞ」 二人は離れた場所で、それぞれの星空へ目を凝らした。
彗星は誰の空にあるか
小説ID: cmu489jrt003e01mzk824qjfo
2 / 10
