オリオンが姿勢を変えたころ、山の天文台には低い雲が押し寄せてきた。 丸屋根の隙間から見えていた星は、ひとつ、またひとつと灰色の底へ沈んでいく。雨粒が屋根を叩き、古い望遠鏡の筒に細かな震えを伝えた。紗良は源三の大きな手で覆いを引き寄せながら、雲の切れ目だけは見失うまいと空を見上げた。 「こっちはだめ。彗星どころか、こと座も見えない」 通信機の向こうで、源三がすぐには答えなかった。オリオンの観測窓には青白い尾が映っているはずだった。船の位置が整えば、地上との同時観測ができる。その肝心の地上が、雲に閉ざされている。 紗良は時計を見た。尾がほどけると予想した時刻まで、あと十八分しかない。雲は流れているのに、山の稜線の上だけが頑として空を隠していた。 「待つって言ったのに」 自分でも驚くほど鋭い声が出た。 「待っていたら、間に合わないかもしれない。衝突の誤報だって、まだ世界中に残ってる。私はちゃんとした軌道を送らなきゃいけないのに」 雨音の向こうで、源三が小さく息を吐いた。 「わしも昔、同じ顔をしておった」 紗良は手を止めた。 「若いころ、珍しい変光星を追っておった。発見者になりたくてな。雲が来るたび腹を立て、記録にならん空は無駄じゃと思った。ある夜、雲が切れるまで時計ばかり見ておったら、雲の端が月明かりでゆっくりほどけていくのを見逃した」 源三の声は、遠い船内にいながら、すぐそばの薪ストーブよりも静かに響いた。 「その変化のあとで星は明るさを変えた。わしは肝心の前触れを見ず、数字だけを拾ったんじゃ。成果を急ぐあまり、空が何を見せようとしていたかを聞かなかった」 紗良は窓を打つ雨を見つめた。雲は敵ではない。ただ、空の一部がこちらへ届くまでの時間を持っているだけだった。 「でも、おじいちゃんは待っていたから、手帳に残せたんでしょう」 「失敗したあとにな。空は急かしても逃げん。こちらが見方を覚えるまで、形を変えて待っておる」 その言葉とほとんど同時に、雲の一角が淡く薄くなった。紗良は覆いを外し、望遠鏡を動かす。開いた空は指先ほどだったが、その隙間を青白い光が横切った。 「見えた」 焦りではなく、紗良は息を整えた。雲が閉じる前の数秒を、ただ奪うのではなく受け取るように記録する。彗星の尾は、雨雲の縁の明るさに呼応するように、かすかにほどけ始めていた。
彗星は誰の空にあるか
小説ID: cmu489jrt003e01mzk824qjfo
7 / 10
