梓は、差し出された玲の手を見つめた。すぐには握らなかったが、拒むように身を引くこともなかった。 「冬木さんは、天文学者なんですね」 「はい」 「空ばかり見ている人なのに、ちゃんとここへ来てくれた」 玲は答えに詰まった。ここへ来る理由を、自分は持っていたはずだった。毎日交わした言葉も、病室へ向かう道順に宿っていた温度も、今は説明できない。ただ、扉の向こうに梓がいると知るたび、置き去りにしてはいけないものがある気がした。 「あなたに会いたかったんです」 梓は驚いたように目を瞬いた。それから、窓の外へ目を向けた。東京の上には、何事もなかったような青空が広がっている。あの空から落ちるはずだった影は、遠い海に沈んだ。 「ありがとう。たくさんの人を守ったのね」 丁寧な感謝だった。妻が向けるものではなく、救われた街の一人が、報道の中の人物へ渡す礼だった。玲は胸の奥の空白がわずかに軋むのを感じながら、静かに頭を下げた。 「一人ではできませんでした」 誰と成し遂げたのか、もう言えない。それでも、その答えだけは嘘ではなかった。 面会終了を告げる灯りが点いた。玲は写真をポケットの奥へしまい、扉へ向かった。振り返れば、過去を取り戻せるような気がした。だが彼は振り返らなかった。失った日々を、梓に背負わせるべきではないと思った。 「冬木さん」 呼び止められ、玲は足を止めた。 梓は自分でも理由が分からないように首をかしげ、それから微笑んだ。 「その名前を聞くと、なぜだか安心します」 玲は目を閉じた。雨の冷たさも、傘の下の笑顔も戻らない。二人が再び同じ場所へ辿り着ける保証もない。 それでも、失われた記憶の外側に、まだ選べる未来がある。 玲は振り返り、今度は初めて会う相手へするように、ゆっくり笑った。 「また来てもいいですか、梓さん」 梓は頷いた。 「はい。今度は、空の話を聞かせてください」 玲は病室を出た。記憶ではなく、新しい時間の中で彼女を知ろうと決めた。東京の空は、どこまでも静かに明るかった。
忘却を載せた回収軌道
小説ID: cmucswpl5002501mz6ty9bh0x
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近未来の日本で、人工衛星が落下する時刻を一日ずつ逆行して観測できる天文学者・冬木玲を主人公にした不穏なSF。玲は、落下軌道を変えるには観測者の最愛の記憶を燃料として過去へ送る必要があると知る。彼女は病床の妻・梓との記憶を削りながら、東京壊滅を防ぐ計算を続ける。政府は玲に妻一人を切り捨てる最適解を迫り、玲は別の軌道を選ぶが、そのために梓が玲を愛した理由そのものを失わせる。衛星は救われ、梓は生きる。しかし梓が初対面のように礼を言う、皮肉な結末にせよ。
