玲は非常回線を切り、地下資料庫へ走った。逆時鏡の設計資料は完成後すぐ機密指定され、紙の原本だけが耐火扉の奥に封じられている。認証鍵を幾重にも通し、埃をかぶった保管箱を引き出した。 最下層に綴じられた追補記録には、開発主任の署名とともに、玲の知らない理論が記されていた。時間の揺らぎへ干渉するには、数値化された命令では足りない。観測者の内部にある、強い情動を伴う記憶。その記憶が持つ固有の情報密度をエネルギーへ変換し、過去の観測値に重ねる。それによって生じるごく小さな誤差だけが、現在の軌道を押し動かす。 代償の欄を読んだ玲の喉が鳴った。変換された記憶は、観測者から不可逆に失われる。 試験記録には動物実験の結果だけがあり、人間への適用は空白だった。だが玲には、迷っている時間がなかった。鏡面に残る落下予測は、観測するごとに一日ずつこちらへ迫っている。 玲は椅子に座り、記憶抽出器の端子をこめかみに当てた。候補として表示された断片の中から、もっとも微弱なものを選ぶ。 今朝、梓と交わした会話だった。療養施設の窓辺で、梓は曇った空を見上げながら、退院したら朝の市場へ行きたいと言った。玲は、寒いから無理をするなと答えたはずだ。梓が少しだけ唇を尖らせ、それから笑った。 その笑顔の温度を胸に留めたまま、玲は実行を押した。 装置の底で、氷が割れるような音がした。鏡面を走る衛星軌道の線が震え、東京湾へ伸びていた赤い予測線が、ゆっくり西へ折れる。落下地点は都心から三・二キロ移動した。 成功だった。 玲はすぐに梓へ発信した。声を聞けば、手放したものの輪郭だけでも取り戻せる気がした。 梓は穏やかに電話へ出た。 「玲さん、どうしたの」 「今朝のことを覚えているか」 沈黙の後、梓は困ったように笑った。 「今朝、会ったかしら」 玲の手から受話器が滑りそうになった。失われたのは自分だけの記憶ではない。過去へ送られた朝は、梓の中からも、最初から存在しなかったことになっていた。
忘却を載せた回収軌道
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