対策本部が示した最適化表は、冷たい白地に一行だけを結論としていた。 梓に関する記憶を全投入する。過去の観測値を一点へ集中して修正する。衛星は月の引力圏との境界をかすめ、太平洋上の無人海域へ落下する。予測される死傷者、通信障害、二次災害はいずれも最小値だった。 「これが唯一、被害期待値を収束させる案です」 担当官は電子署名の欄を玲へ向けた。記憶の総量、変換効率、失われる関係性への影響。梓の名は、燃料条件の識別記号として何度も並んでいた。 玲は計算式を追った。重力補正にも噴射誤差にも虚偽はない。自分が組んでも、同じ答えへ行き着くだろう。だからこそ、署名欄の前で手が止まった。 梓が何を好きだったか、玲にはもう曖昧だった。市場の話をした朝も、灯台を夢見た夜も、掴もうとすれば指の間から抜け落ちる。それでも、彼女を数値の条件として使い切ることだけは、何か決定的な誤りに思えた。 「猶予はありません」 「分かっています」 玲は端末を閉じた。「だが、この案は軌道を落とすことしか考えていない」 対策本部の制止を背に、彼は逆時鏡の補助端末へ向かった。調べるべきなのは落下予測ではない。衛星がなぜ、いまこの姿勢で回転しているのか。その履歴だった。 軌道発電衛星には、廃棄前に回収用の姿勢制御計画が組まれている。玲は膨大な記録を遡り、故障とされた微小噴射を一つずつ照合した。三年前、二年前、そして落下予測が始まる直前。推進器は壊れたのではなかった。回収信号を受け取れないまま、古い命令を律儀に繰り返している。 玲は画面に新しい線を引いた。衛星を押し出すのではなく、眠っている制御系へ届く観測値を作る。必要な記憶はなお大きい。だが、梓のすべてではない可能性があった。 赤い予測線の奥で、海上へ向かう細い余白が、初めて消えずに残っていた。
忘却を載せた回収軌道
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