梓の手は細く、玲の掌の中で驚くほど静かだった。窓の外では夜の雲が低く垂れ、遠くを走る救急艇の灯りだけが海の方角を横切っていく。 「大事なことって、東京のこと?」 玲は頷いた。衛星の回収制御について説明しようとして、言葉を失った。古い電波観測網が記録した星の位置、電離層の揺らぎ、海上局から送られた補正値。その一見無関係な数列に、衛星の微小推進器は反応する設計だった。 廃棄後の衛星を、地上から目立たず呼び戻すための仕組み。忘れられた観測値を連続してわずかに書き換えれば、推進器は故障ではなく命令として受け取る。落下を止めるのではない。何日もかけて姿勢を整え、無人の回収海域へ自ら降りる軌道へ導ける。 「帰ってくるんでしょう」 梓が言った。 玲は顔を上げた。 「何が?」 「あなたが。今の顔は、どこかへ行く人の顔だから」 その言葉に、胸の奥の何かが痛んだ。出会った雨の日、濡れた肩を見て梓が笑った理由を、玲はまだ完全には失っていない。彼女は、答えを急いで誰かを置き去りにする玲を、いつも引き留めたのだ。 観測所へ戻った玲は、過去の電波記録を年代順に並べた。一点だけを変える政府案とは違う。数千の観測所、数万の時刻へ、呼吸のように小さな誤差を送り続ける。計算は海域へ向かう青い線を描いた。 だが必要量の表示を見た瞬間、玲は動けなくなった。 出会いの日の記憶。その全体。 故障した傘。雨の匂い。梓の濡れた髪。差し出した傘に二人では収まらず、それでも彼女が隣に立った、あの原点すべてだった。 玲は抽出器の候補欄に指を置いた。これを送れば、梓が玲を選んだ理由も、玲が梓を特別だと知る理由も、過去の観測値の中へほどけていく。 それでも青い線の先には、誰の灯りも消えない海があった。 玲は病室へ戻り、眠らない梓の前に座った。 「明日になったら、俺のことを知らないかもしれない」 梓はしばらく黙り、それから玲の手を握り返した。 「それでも、また会えばいいわ」 玲は初めて、彼女に理由を告げられないまま泣いた。
忘却を載せた回収軌道
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