玲は補助端末から対策本部の管理回線を切り離し、逆時鏡の最初期ログを呼び出した。正式な観測記録には残らない、試験運用中の生データだった。三年前の時刻列を遡るほど、画面はノイズに埋まっていく。 その底に、玲は見覚えのある略号を見つけた。 RKN。 研究所の誰も使わない記号だった。玲だけが、計算途中で採用を保留した軌道を示すために書く。回収可能性、継続性、そして非犠牲。学生時代、結論を急ぐ自分を戒めるために決めた癖だった。 略号の横には、通常の最適化処理で除外された海域座標が記されていた。無人の回収海域。廃棄された洋上プラットフォームと、衛星の旧式回収制御がかろうじて届く位置にある。 玲は息を殺した。そこへ衛星を導ければ、落下ではなく軟着水に変えられる。東京も、離島も、療養施設のある地域も、危機の枝から外せる。 だが計算を走らせると、第三の案はすぐ赤く染まった。旧式制御系を目覚めさせるには、過去の観測網へ複数の修正を同時に送り込まなければならない。必要な情報エネルギーは、政府案より少ない。それでも残された記憶のうち、もっとも密度の高い核を一つ、丸ごと必要としていた。 候補欄に、まだ消えていない一場面が浮かんだ。 初めて会った日。観測所の屋上で、故障した傘を抱えた梓が、雨雲の切れ間を見上げていた。玲が差し出した自分の傘は小さく、二人の肩は濡れた。その不格好な距離を、梓は笑って許した。 理由も言葉も薄れていたのに、その笑顔だけが玲を立たせた。 過去の玲は、この選択肢を知っていた。未来の自分が、効率だけを選びかけることも知っていたのだ。ログ末尾には、玲自身の筆跡で短く残されていた。 最後まで、誰も落とすな。 玲は端末を閉じ、療養施設へ向かった。病室の梓は眠らずに待っていた。何かを失う予感だけが、彼女にも届いているようだった。 玲は椅子に座り、梓の手を包んだ。 「少しだけ、頼みがある」 梓は不思議そうに玲を見て、それから静かに頷いた。 「あなたがそんな顔をするなら、きっと大事なことなのね」 玲は答えられなかった。二人が出会った雨の日を、二人の未来のために手放す準備を、ただ始めた。
忘却を載せた回収軌道
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