海上都市の朝は、配給を知らせる鐘から始まる。今朝の鐘は一度しか鳴らなかった。港の掲示板には、乾燥豆の配給を半分にする、と書かれている。列に並ぶ人々は文句を言う元気もなく、波に揺れる足場を黙って見つめていた。 料理人の澪が勤める食堂でも、昼に出せるのは薄い粥だけだった。鍋を洗いながら、澪は昨日、常連の老人が自分の分を孫へ譲っていたことを思い出す。せめて温かいものをもう一杯。その思いで、閉店後、祖母の遺した献立帳を開いた。 祖母は乏しい材料を使い切るのがうまかった。頁の端には、野菜の皮の干し方や、煮汁を捨てずに使う工夫がびっしり並ぶ。中ほどで澪の指が止まった。青のりと干した大根の皮で作るスープ。青のりは防波堤の内側に育ち、食堂の仕入れ先でも食用に採っている。大根の皮なら、昨日干したものが残っていた。 帳面の指示は細かい。青のりを水に浸し、その水ごと弱火にかける。沸く前に火を止め、大根の皮を加えて蓋をする。塩は最後にひとつまみ。澪は小鍋で試した。磯の香りが立ち、捨てるはずだった皮から、かすかな甘みが出た。粥を増やせるわけではない。それでも、空腹のまま帰る人に渡せる一杯だと思った。 味を確かめていると、裏口から隣の修理工の娘が顔を出した。「いい匂い。今日はごはん、まだなの」。澪は小さな椀に注ぎ、熱いからゆっくり飲んで、と渡した。娘は両手で椀を包み、一口ごとに息を吹く。そのあとやって来た母親にも分けると、母親は「これなら、うちにも材料がある」と言った。 澪は鍋底に残った一杯を見た。食堂だけで出すより、作り方を伝えたほうが多くの家に届く。明日は青のりの採り方も含めて紙に書こう。そう決めて帳面を閉じかけ、妙な余白に気づいた。スープの手順の下だけ、紙をこすったように白い。斜めから見ると、消え残った筆圧が浮いた。 そこには祖母の字で、佐伯千鶴へ、とだけ読めた。千鶴は祖母の親友だったはずだ。澪はもう一度余白に目を凝らしたが、その先の言葉は読み取れない。明日、このスープを広める前に、母に尋ねてみようと思った。
商標より台所が強い
小説ID: cmue8cjeq002k01mzn8t2m0ce
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