食堂へ戻っても、澪は鍋に火を入れられなかった。借りた椀は戸口に積まれ、明日の振る舞いを待っている。そこへ梓が来た。濡れた作業着のまま、戸口から動こうとしない。 「局に渡した。澪が見せてくれた手順を写して、皮を半分にした試作のことも話した」 梓の家では、母の配給票の更新が止まっていたという。窓口で何度頼んでも返事はなく、澪のスープの話をした途端、職員は製法を持ってくれば手続きを進めると言った。 「母さんの分まで減ったら、家で食べるものがない。勝手に渡して、ごめん」 澪は祖母の帳面を握った。千鶴も、家に届く豆のために同じ手順を差し出した。事情が分かっても、祖母が帳面の下を消した事実は変わらない。 「梓の家のことは心配だよ。でも、先に相談してほしかった。私なら渡させないで済んだ、とは言えないけど、一緒に考えたかった」 梓は顔を上げず、「うん」とだけ答えた。いつもなら閉店後に椀を拭いてくれる梓が、今夜は手を伸ばさず帰った。 翌朝、澪が配給局へ作り方の公開を申し出ると、職員は提出済みの製法なので確認が終わるまで待つように言った。いつ終わるかは答えなかった。食堂に戻った澪は、母の帳面をもう一度開いた。告知の切り抜きの次の頁に、小さな字がある。六月十五日、母さんは「局の鍋だけで作る汁にしたくない。どの家でも煮られるよう、順序まで教えたい」と言った。母が祖母の言葉を書き留めていた。 澪は自分の帳面から手順を写した。青のりを採る場所、水に浸すこと、沸く前に火を止めること。皮が少ない家のために、半量で試したときの味も添えた。昼前、借りた椀を並べる修理工の娘に最初の一枚を渡す。娘は読み終えると、「お母さんにも持って帰る」と笑った。 澪は残りの紙を食堂の戸口に置いた。通りかかった人が一枚ずつ持っていく。少し離れた荷揚げ場に梓の姿が見えたが、互いに声はかけなかった。澪は鍋の蓋を開け、来た人に作り方を伝えながら、スープを椀に注いだ。
商標より台所が強い
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