海上都市の夜は、看板の明かりまで波に酔っていた。浦辺は事務所の戸に閉店札を掛け、冷めたコーヒーを見つめていた。探偵稼業の売り上げは薄いが、底に残った液体だけは妙に濃い。 そのとき、扉が開いた。 花嫁衣装の女性が立っていた。白いドレスの上に橙色の救命胴衣。幸福と防災が、胸元で仲よく渋滞している。 「夫を探してください。正確には、夫が持っている浮力券を」 「落とし物なら管理局へ。夫なら、まず本人へ」 「本人からの連絡が途絶えました。結婚式が終わって一時間です」 浦辺は閉店札を裏返した。開店の文字が、ひどく不本意そうに揺れた。 女性は港の小さな診療所を営む医師だった。夫は今夜、式に出席した富豪の住戸から浮力券を持ち出したらしい。 「診療所の更新ができていなかったんです。それを知って、彼が何とかする、と。さっき届いた連絡で、券を取ったと告白されました」 浮力券は、建物を支える浮体の維持権を記した証票だ。夜明けの権利確認で有効な券がなければ、住戸も診療所も浮力維持の対象から外れ、退去を要する。海は事情を聞いて待ってくれるほど、親切な大家ではない。 「つまり、戻さなければ富豪が困る。戻すだけでは診療所が困る」 「はい。入院している患者さんもいます」 浦辺は椅子を引いた。がたついた机の脚元で、厚い紙がずれた。 花嫁の視線が止まった。 「それ、浮力券では?」 「俺の自宅のだ。机の傾きを直すのに、厚さがちょうどよくて」 「あなたの家を浮かせる券で、コーヒー染みのついた机を支えないでください」 浦辺は紙を救出した。自宅の存続が、家具の水平より後回しになっていたことは認めざるを得ない。 「夫の最後の連絡を見せてくれ」 差し出された端末には、短い文があった。 『白い船のところにいる。朝までには何とかする』 窓の外には船の灯が幾重にも並んでいた。白い船だけで探せというのは、パン屋で小麦の匂いを捜すようなものだ。 それでも浦辺は上着を取った。 「新婚旅行にしては行き先が物騒だ」 「夫にも、そう言ってください」 二人は夜の桟橋へ出た。ドレスの裾を抱えた花嫁の足取りは、浦辺よりずっと速かった。
診療所を浮かせて自宅を手放す
小説ID: cmvto83pj002501s6fzqptlvo
1 / 10
