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診療所を浮かせて自宅を手放す

小説ID: cmvto83pj002501s6fzqptlvo

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事務所で浮力券を回収し、浦辺たちが自宅に着くころ、東の空は黒から薄い藍へ変わっていた。  浦辺は鍵を回した。いつもなら靴を脱いでため息をつく玄関で、今夜は靴のまま段ボールを広げる。 「持っていく物は?」  夫が尋ねた。 「着替え、寝具、仕事道具。冷蔵庫の中身は、まず生存確認だ」  花嫁が扉を開け、卵と調味料を袋に移した。奥の容器だけは、医師としても診断を避けたい顔で蓋を確かめた。 「これは処分でいいですね」 「異議なし。俺より先に退去させてくれ」  夫は壁際に並ぶ本を箱へ詰めると、その背後の大きな書棚を抱えようとした。足を踏ん張り、顔まで赤くする。 「それは壁だ。俺も入居初日に間違えた」  木目の板には、棚板が直接取りつけられていた。夫はそっと手を離した。 「ずいぶん頑丈だと……」 「家ごと運ぶ気概は買う。船代は買えない」  借りた台車へ箱を積み、毛布で包んだ端末と調査用の鞄を載せた。残す家具は管理担当者の指示で固定する。暮らしを畳むにも、思った以上に結び目が多かった。  到着した担当者は各室を回り、人が残っていないことを確認した。夫も浴室や収納を開け、最後に玄関まで戻った。  水の元栓を閉め、加熱設備を止める。電源は監視装置用を残し、居住設備だけを順に落とした。担当者が端末に記録するたび、部屋の小さな音が一つずつ消えた。 「紙一枚を返せば済むと、思っていました」  夫は空になった棚を見て言った。 「向こうの家でも、こういう荷造りをさせるところだったんですね」  花嫁は袋の持ち手を握り直した。 「券の向こうに、暮らしている人がいるのよ」  夫はうなずき、管理人へ返還の到着予定を送った。もう、言い訳を書き足さなかった。  退去確認の画面に浦辺が認証すると、担当者は診療所への移転申請に添付した。登録の確定を待つ間に、荷物を桟橋へ運ぶ手はずも整った。  浦辺だけが、窓辺へ戻った。  向かいの灯が波にほどけていた。眠れない夜も、依頼のなかった日も、ここから見た海だった。窓枠には、いつの間にか手の置き場所までできている。  誰も急かさなかった。  浦辺は窓を閉め、留め金を確かめた。今度は冗談を言わず、掌に残った鍵を管理担当者へ返した。

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