雪崩から一夜が明けようとしていた。山間の集落では、屋根より高い雪の壁に灯が遮られ、夜はいつまでも家々の底に溜まっていた。 朔は冷えた囲炉裏の前に座っていた。向かいにあるのは、伴侶の椀だけだった。縁の欠けたところを指で撫でる癖を、朔は何度も直すように言った。新しい椀を買おうと話したのは、いつの夕餉だっただろう。 思い出そうとすると、雪を掘る音が耳の奥で響いた。 昨日、狩人仲間と折れた梁を持ち上げ、埋まった道を探した。呼んでも返事はなかった。戻った家にも、返事はなかった。 戸口には弓が立てかけてある。獣を追い、山の風を読み、暮らしを支えてきた道具が、今はただの曲がった木に見えた。 窓の外で、小さな音がした。 白鹿が一頭、雪の上に立っていた。枝分かれした角に月光が溜まり、角先からこぼれるたび、足もとの雪が淡く透けた。 朔が戸を開けると、鹿は山道へ向かった。追う足が沈まない。鹿の蹄のあとだけ、凍った土が現れていた。 集落のはずれで、その跡は森へ折れた。昔から道などない斜面に、雪のない細道が続いている。入口には五つの石標が並び、いずれにも細い溝が刻まれていた。 白鹿が最も近い石へ鼻先を寄せた。 溝に月光が流れ込み、文字が浮かんだ。 一区間を越えれば、一日前へ。 次の石には、共に生きた者との思い出を、一つ。 残る石の文字を、朔は膝をついて読んだ。道が届くのは五日前まで。ひとつの境界にはひとつの記憶。差し出すものは、戻りたい時に連なる者との記憶でなければならない。 朔は伴侶の笑い声を胸の内で呼んだ。吹雪の晩、二人で薪を運び、戸口で転びかけた朔を支えながら笑った声。その温かさを失うのか。 けれど五日前なら、あの人はまだ家にいた。 雪の下へ何度名前を呼んでも届かなかった声が、今度は届くかもしれない。 朔は一度だけ家へ戻った。肩に掛けかけた弓を戸口に置き、懐に小さな帳面と炭筆を入れる。椀には触れなかった。持ち出せば、帰る場所まで空になりそうだった。 森へ戻ると、白鹿は待っていた。 五つの石標の向こうで、細道がほの白く曲がっている。朔は息を整え、最初の境界へ続く足跡を追った。
白鹿に預けた出会いと二度目の自己紹介
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